第一章『冥府界』 
「度重なる絶望」編

あれからどれくらい時間が過ぎたのだろう。
もう何度も何度も魔物に追われ、ここがどこなのか
どのくらい逃げ回ったのか、さっぱり分からない。
行けども行けども出口は見えず、同じ景色が続くばかり。
正しくは崖から落ちて何度も振り出しに戻ってるだけなのだが。

「いたたた・・・また落ちちゃった」

足場がどこも不安定な上に滑りやすく
魔物に気を取られていると足元をすくわれてしまう。
かといって、慎重に進めば即座に魔物の餌食となるわけで。
後にも先にも進めず、気が付けばいつも同じ場所にいた。
元々魔物との戦闘経験はなく、精々遠くへ追い払う程度で
いざこのような局面に出くわすと自分の非力さがとても重く圧し掛かってくる。
かつては共に戦ってくれた兵士がいたとはいえ
軍を率いる身としてこれ以上情けない事はなく、仲間に会わせる顔もない。

「ここで考えてても仕方ないんだけどね・・・」

重い腰を上げ、少年は再び歩き出す。
女神パルテナから授かったたった一本の弓矢だけが
先へ進む唯一の支えになっている気がした。
そう、ここで立ち止まってしまえばそれを裏切る事になる。
鉛のような足を懸命に引き摺り、どこからか湧き出る魔物を避け
あの憎き死神の目前まで辿り着こうとしていた。
鋭い眼球はローブに包まれ、全く様子を窺うことができない。
少しずつ近付き、僅かでもあるだろう隙を狙っていくしかなかった。
注意深く観察し続ける少年の目が、一瞬何かを捉えた。
垂れ下がる蔓草の間に奇妙な色をした扉が隠れていたのだ。
それは死神から少し離れた場所にあり、ここより幾分か様子がよく見渡せそうだ。
できるだけ足音を立てないように、それでいて素早くその扉に滑り込む。
幸い死神はこちらに気付いていない。部屋の中も静かだ。ほっと一息つく。

「ようこそ、ピットよ」

「ヒィ!」

が、突然声をかけられ思わず声を上げる。
振り向くと、いつの間にか一人の老人がそこに立っていた。
魔物でなかっただけ安心したが、とりあえず警戒を怠らないようにした。
老人は怪しげな笑みを浮かべ、宙に浮いたまま話しかけてくる。

「随分と困っているようだな。まあ仕方がない。
 お前はまだまだ未熟だからのう。ここらで少し修行をしてやろう」

「しゅ、修行・・・ですか?」

「うむ。今からワシの出す魔物から上手く逃れる事ができたら
 少しだけお前を強くしてやるぞ」

そう言うなり、老人は高々と両手を上げた。
すると、どこからともなく大量の板状の魔物が姿を現した。
部屋を縦横無尽に飛び回り、少年目掛けて突進を繰り返してくる。

「こんな沢山、一度に相手にできないよ!」

「ふぁっふぁ、これはかつて戦士を鍛える為に使われていた。
 これらを見事追い払う事ができたら少しは強くなるだろう」

「そんなあ」

老人と話をしている間にも、魔物は次々と襲い掛かってくる。
少年はすっかりその動きに惑わされ、踊らされていた。
見かねた老人は素早く少年の元へ移動し、声を張り上げる。

「全てを一度に相手にしようとするでない!
相手の動きを目を凝らしてよく見るのだ」

言われるままに、少年は一体の魔物だけに集中する。
目で追うのがやっとだったが、徐々に動きが見えてくる。
すると、次第にあることに気が付く。魔物の動きは全て一定だったのだ。
素早く安全な位置へ移動し、狙いを定めて弓を射る。
矢が命中した魔物は粉々に砕け散り、みるみる数が減っていく。

「これで最後だ!」

渾身の一撃が魔物に当たり、遂に部屋中の魔物が姿を消した。
思わずしりもちをつく少年の後ろで、老人は満足げに笑みを浮かべる。

「いやいや、大したものだ。パルテナ様が目をつけただけはあるわい。
 よし、気に入ったぞ。お前にはこれをやろう。
 使い方は・・・まあ、そのうち分かるじゃろうて」

「えっちょ、ちょっと待って!」

老人は少年に小さな赤い玉を手渡し、そのまま部屋ごとスゥっと消えてしまった。
一瞬警戒はしたものの、部屋の前にいたはずの死神の姿はどこにもなかった。
残された少年の手に光る赤い玉はほんの少し熱を持っているようで暖かく
中では炎が燃えているようにゆらゆらと赤い光が揺れていた。
しかし用途が全く分からないそれは、次第に手に余るものに感じてくる。
あれこれ確かめてみるものの、どうも使い方が分からない。

「これ、どうすればいいんだろう・・・」

途方に暮れた少年は仕方なく持ち歩いていく事にした。
あれだけ大変な事を成し遂げて手に入れたものなのだから
それなりに使い道があるのだろう、と少年は考えた。
しばらく進むと、空中をタコのような
4匹の魔物が漂っているのに気が付いた。
特にこちらを狙っているわけでもなく、
空中をゆらゆらと漂っている。
無視して先を急ごうとも思ったのだが、
魔物の腕なのか足なのか分からない触手の先に
いくつかの細かいトゲのようなものがついているのに気が付いた。
少年は魔物を射抜こうと、狙いを定めて弓を引き絞った時
あの玉がフワリと浮き上がり、そのまま矢に吸い込まれるように消えたかと思うと
そのまま矢の周りで円を描くように2つの火球が回転しはじめた。

「おお、なんか分からないけどすごそうだ!」

少年は魔物に向かって火球のついた矢を放った。
矢は炎を纏いながら魔物に向かって一直線に飛んで行き
1体の魔物に当たると同時にそれは爆発した。
炎の勢いはそのままやむ事はなく、他の魔物までもを巻き込んだ。
すっかり焦げた魔物達は、そのままフラフラと下へと落ちていく。

「す、すごいや!これで少しだけ楽に進めそうだ」

気力を取り戻した少年は意気揚々と先へ先へと進んでいった。
最初こそ戸惑っていたものの、今ではその面影すら感じなくなっている。
しかも、徐々に出口へ近付いているように余裕すら感じられた。
魔物達も負けじと少年へ向かって襲い掛かってくるが
火球の纏った矢の前には手も足も出ず、一瞬にして散っていった。
もう恐れるものは何もない。ただひたすら前へ前へ進むだけだった。
死神の猛威も、今の少年の前ではなんでもない事であった。
あまりの少年の変貌した様子に、死神はかなり焦っている様子である。
小さな死神を呼び、自らを守るよう言いつけるが
火球の矢はそれらを全て焼き払い、死神もそれに巻き込まれるように消えていった。
少年は何だか自分が別人のような感じがしていた。
足は既に鉛のように重く、腕は棒のようになっているが
ほんの僅かな希望だけが、少年の背中を力強く押しているような感じがした。

「ここを乗り越えれば・・・!」

高くそびえる足場が目の前に立ちふさがった。
少し油断をすれば、再び奈落の底へと突き落とされるだろう。
ギュッと弓を握り締め、再度辺りを確認する。魔物の姿はない。
いくつかの足場を越えた先に、求めていた出口への扉が見える。
少年は少し後ろに下がり、そのまま全速力で足場へ飛び乗った。

だが、少年はあまりにも焦りすぎていた。

足ではなく肩に力がこもっていたため、着地がとても不安定だった。
その上、苔で湿った足場はやたら滑り、疲れ切った足は言う事を聞いてくれない。
しりもちを数回、前滑りを数十回繰り返した後、壁に思い切り頭をぶつけてしまった。
途中何かを落としたような音がしたが、それを確認する暇などなかった。

「あたた・・・ちょっと張り切ったらすぐこれだよ」

額をさすりながら、何とか下へ落ちる事を免れた事に安堵する。
しかし派手に転んでしまったようで、所々擦り傷ができてしまっている。
誰かに見られなくて良かった、なんて違う所で安心している少年の横を
またタコのような姿の魔物がふわふわと漂いながら現れた。
今度は少年をしっかりと狙っているようで、大きく円を描きながら近付いてくる。
またまとめて倒してやろう、と少年は弓を構えて矢を放った。
しかし、矢には火球はまとっておらず、1体射抜いたところで何も起こらなかった。

「・・・あれ?なんで?」

何事かと一瞬呆気にとられたその隙を魔物は逃さなかった。
次々と少年に向かって突進し、崖のほうへと追いやっていく。
その間にも魔物の触手にからまれ、傷口から毒を仕込まれ手足が痺れる。
ただでさえいう事の聞かなかったボロボロの手足が、
もはやただの飾りのように体にぶらさがっているようだった。
確認すると、弓矢からは炎の光が一切消えていた。
おそらくあの時転んだ衝撃でなくなってしまったのだろう。

「なんてこった、どうすればいいんだろう、この状況・・・」

両手が痺れて自由が利かず、上手く狙いを定める事ができない。
魔物は数回空中で旋回した後、少年に向かってゆっくりと近付いてくる。
それを何とか全身の力を込めてかわし、弓矢を構えようとする。
しかし鉛のような体はこれ以上自分のいう事を聞いてはくれなかった。
動くたびにギシギシと体が痛みを叫ぶ。視界もぼんやりと霧がかったようになる。
正面には魔物、背後は崖、これ以上後ずさりする事も許されなかった。
一か八かで少年は全ての力を込めて弓矢を放った。
だがそれはむなしく空を裂き、そのまま暗闇へと消えていった。
容赦なく襲ってくる魔物に何一つ抵抗する事もできず
遂に体はバランスを保つ事ができずに崖へと身を投げた。
重力に従うように重い体は下へ向かって落ちていく。
それでもまだ魔物達は少年を執拗に襲う。もうほとんど意識もない。
ほんの一瞬、とても暖かな光を見た気がした。
そしてそれに向かって一言呟く。








「ヤラレチャッタ」




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